Oct 30, 2009

三宅から空路 東京へ

三宅には羽田から小型のプロぺラ機DHC-8が飛ぶ。昨年は、日常的に飛ぶものだと思い込んでいて、火山ガスで飛行中止になってから、大慌てで東海汽船に乗り込んだ。今年の研修生は心がけがよいのか、北東の風で火山ガスも阿古地区に流れ、DHC-8が飛んで来て、定刻13時に飛んだ。船に弱い二人の研修生は大喜び。
滑走路の短い三宅島はプロペラ機しか就航しない。しかし、羽田から40分、島の人口2千人を考えればまさに妥当な機種だ。ふんわりと東京湾を縦断するのも楽しいものだ。

Oct 29, 2009

八丈島のエコツァーガイド 岩崎さん

八丈島はGPSが日本に導入され、フィリピン海プレートの動きが検出できると即座にGPS受信機を持ち込んだ。そんなことからしばし八丈島を訪れ、エコツァーガイドの岩崎さんを知る。郷に入れば郷に従えと、4年前からJICA研修生を島内に案内してもらう。華奢な体だが、活動的なガイドさんである。今年は三原山南部でのごみ処理場建設反対で奮闘された様子だ。project wave

Oct 28, 2009

御嶽山の噴火から30年

1979年、御嶽山有史初の噴火から30年が経過した。当時、御嶽山噴火を信じた研究者は皆無だろう。日本の噴火史上で小さな噴火ながらも、御嶽山噴火が与えた衝撃は大きい。なにせ、噴火予知計画にあのセントヘレンズ噴火と並んで記されている。
噴火からやっと御嶽山の火山研究が始まった。そして、地味な研究に取り組んだ若手研究者は最近成果を上げている。火砕流を伴う噴火が最近1万年間に4回、小規模な水蒸気噴火は最低10回、決して侮れない噴火履歴である。
しかし、そんな火山でも最近2回の小規模な噴火は日時が特定できていない。決して観測網は充実していない。そして、周りの町も大変だ。人口1千人を割った王滝村は赤字再生団体を辛うじて避けたが依然厳しい財政だ。高根村も高山市に含まれたが、一気に五活火山を抱えた高山市は火山防災はまだまだだ。
豊かな自然を抱える御嶽山だけに私たちもしっかりとした体制を確立する必要がある。

Oct 27, 2009

八丈島ロッジ Y.LuLu



今年も八丈島の宿は ロッジ Y.LuLuだ。八丈富士の麓、空港を見下ろす高台にある。ヨネさん ヨシさん夫婦がやっている。売りはヨネさんの料理、昨晩も生ハムサラダ、温泉卵入ポタージュスープ、ビーフシチュー、最後はチーズケーキとコーヒー。これにヨシさん手作りパンが三種類。食事に苦労するJICA研修生も「おいしい」を連発した。夏は一杯だが、ぜひとも泊りたい宿の一つ。なお、庭の奥にヨネさんの好意で私たちのGPS観測点、八丈の活動をモニターする。

Oct 26, 2009

JICA研修生と伊豆諸島、三宅と八丈の旅

2006年に地震と津波、噴火に関するJICA研修を立ち上げた時から、伊豆諸島の三宅島と八丈島を訪れている。三宅島は言うまでもなく2000年の噴火で島民が4年半にわたり全島避難した島である。現在も時々強い火山ガスに襲われる。一方、八丈島は2002年には八丈富士近くまでマグマが上昇しながら大事にならず、火山が楽しめる極めて平和な島である。普段なら、噴火災害だけの見学になるが、火山の楽しさを学ぶ見学も必要と考える。

Oct 25, 2009

私の四人の親父

私の親父は、きっすいの国鉄マンだった。亡くなってから、駅で荷役をやってきた人が訪ねてきた。確かに若い人には非常に親切だった。しかも積極的で63歳で自動車の免許を取得している。
しかし、私にはまだ同年代の大先輩、3人の親父がいる。一人は大学の恩師、村松郁栄さん、岐阜に来てから濃尾地震と根尾谷断層の研究に没頭した。一人は、横山泉さん、教えてもらっていないが、現在もJICAの研修に講師をやってもらう。彼は大学で技術者を育て、未だに気取らない人だ。そして最後は山下文男さんだ。現在も人々の歴史を取材し、自分の生きた時代を伝えようとする。
私もそろそろ後ろ姿が見られる年代を迎える。4人の親父たちを見習いたいものだ。

御嶽山火山噴火緊急減災対策

国土交通省のもとで、御嶽山火山噴火緊急減災対策会議が立ち上がった。御嶽山は岐阜と長野の県境にあるだけに噴火対策も極めて微妙だ。一県だけでなく、きちんと協議が費つ余王である。
今年も夏の調査から御嶽山の火山活動で新たな認識が生まれた。最近1万年間に最低4回の火砕流を伴うような噴火があったこと、そのうち一つの火口は継子岳より北側とも推定される。年々、改まる火山活動の認識に対応できる噴火減災対策が必要である。
また、この地域の大規模な過疎化により、夏季には住民よりも多くの観光客が滞在する。観光客にも目を向けた減災対策が求められている。

Oct 24, 2009

山下文男「隠された大震災」

1924年生まれの山下文男さんはまだまだ元気だ。今年もまた一冊、出版された。津波に頻繁に襲われた三陸大船渡で育った山下さんは津波から始まり、地震、そして、その災害を調べる中で、災害を助長させた戦争について身近な史実から迫っている。
そんな彼の姿、私たちが三河地震の本をまとめた時の一つの目標となった。身近なところから戦争を知っている人たちが消えている。それだけに、災害の背景とその厳しい中でも背筋を伸ばして生きた人々の姿を残すことは大切である。二度と過ちを繰り返さないためにも。東北大学出版会発行

Oct 22, 2009

イノダコーヒーで見つけたガヨコーヒー

宿の近くにイノダコーヒー本店、早速、朝食に寄る。20年ぶりか、アチェの人が聞けば驚く500円。でもミルクコーヒーのバランスは絶妙だ。そのテーブルの上にガヨコーヒーの宣伝。私達がGPS 観測するフィールド、アチェの高地で産するコーヒー、ストレートが旨い。いつも大量に買ってくる。グラム一円なり、ここでは200g1470円、私達もきちんとした代金を支払うべきかな。まずは、ガヨコーヒーに再会できて乾杯。

Oct 21, 2009

京都 赤垣屋で飲む

京都での地震学会、そこそこに逃げ出し居酒屋赤垣屋に飛び込む。開店早々ながら。既に常連らしき客がカウンターの定位置らしきを占めていた。常連はどこでも角の位置、その常連の間、カウンターの中間に入り、コップで冷酒を楽しむ。しゃべり過ぎない店人も素敵である。
「鰯の煮付け」と頼んだが、こちらでは「鰯の炊いたの」だ。鰯の一夜干し、頭からかぶりつく、生の鰯よりも旨い。魚とおでんの肴でコップ4杯を二時間かけ、ゆっくりと楽しむ。京都大学にも近く、講座のグループもちらほら。
名古屋にも大甚という素敵な居酒屋で、賀茂鶴の樽酒が古風なテーブルで楽しめる。しかし、赤垣屋は、少しばかり肴も手が込み、大人の静かな飲み屋である。

Oct 16, 2009

御嶽山で地震活動が活発化

御嶽山の東山麓では10月5日から、地震活動が活発化している。12日には震度4となる地震も起きている。Mは4に満たない。この周辺では1976年から30年以上に渡り、群発地震が続く。地震の発生回数は多いが規模はせいぜい4までだ。今年の6月13日に M4.7の地震も発生し、2003年以降、久しぶりの活発化である。気象庁によればすでに260回もごく小さな規模の地震が発生しているという。【右は気象庁による12日の地震の震源地(×)と震度分布(黄色が震度4)】

Oct 15, 2009

100時間の断酒

シンガポールからインドネシアに滞在した100時間、酒を飲まなかった。いや、酒がなかった。一晩だけ泊まった豪華なホテルにはビンタンビールがリストアップされていた。面倒で注文しなかった。あとは酒とはまったく無縁の生活だった。でも幸いに指が震えることはなかった。メダンからのシルクエアーの機内でビールを頼む。コップ一杯しか持ってきてくれなかったが、タイガービールもうまかった。

Oct 14, 2009

津波から五年を迎えるバンダアチェ

早いもので2004年スマトラ地震津波からまもなく5年を迎える。6月は空港から観測に飛び出し、気づかなかったが、市街地が大きく変わっている。新しいモールなど小綺麗な店が新築されている。反面、旧市街地の人通りが少なくなっていた。馴染みのカフェも椅子はがらがらだった。ひょっとしたら来年はないかもしれない。復興も、悲しさをもたらす。(写真は朝夕にアチェコーヒーを楽しむカフェから馴染みのビサタホテルを眺める)

Oct 13, 2009

バンダアチェの津波杉

2004年スマトラ地震津波の最大の被災地バンダアチェでいつも訪ねる場所がある。ウレレ海岸にそびえる1本の杉(シンダー)だ。2005 年2月上旬、アチェに初めて来た時、津波に襲われ建物や樹木が何もない中、この杉だけが、悲しさを怯えながら凛凛しくそそり立つっていた。ことしも2回目の津波避難訓練で、杉の前を人々が避難した。
人々の世代が移り変わっても、杉の木は次の津波まで、2004年地震津波を確実に伝えると期待する。ちなみに、この杉は私たち環境学のスマトラ地震津波調査報告の表紙を飾っている。表紙だけでも、アチェの災害と復旧、復興が伝わってくる。

発展途上国における地震火山災害

8月末からインドネシアで地震災害が続く。これらの災害に対する機敏な救援、とりわけ人命救助の初期出動は重要である。インドネシアは日本と同様に地震と火山の国である。しかし、意外にもインドネシアの大学には地震も火山も教育研究する講座が一つもない。発展途上国といって笑えない事実である。
各国の復旧支援も緊急支援と同時にその根本的な支援を考え、インドネシアできちんと地震や火山の災害について教育研究できる講座を創設すべきである。そうしいなかぎり、いろんなシステムを提供しても、有効な活用や応用は無理である。創立するまでは、地震津波について学ぶ留学生を特別枠でも確保すべきである。もっともそのためには、日本で教育体制の再建が急務である。

成長するアチェの研究者

世紀の超巨大地震2004年スマトラ地震が発生し、留学生頼りで最大の被災地バンダアチェに入る。アチェのシアクラ大学には小さな地球物理学研究室しかなかった。地震津波の研究よりも漁業の振興が大切と告げられた。
4年が経過し、魚市場も活気を取り返したが、津波防災研究センターも設置された。そして今回のご当地でのワークショップでも同研究センターから4つの報告があった。ゆっくりながらも、アチェでも歩みが続いている。ひょっとするとインドネシア唯一の地震学の研究室も実現するかもしれない。

Oct 12, 2009

フィリピンのTotoさんにアチェで再会

スマトラ地震から5年目を迎えつつあるスマトラのアチェで、地震などの防災に関する日本とインドネシアのワークショップが10月12−13日に開催された。その席上で、フィリピン火山地震調査所のTotoさんに会う。先週は名古屋大学のJICA研修にマレーシアからEffendiさんを招聘していた。10月3日からベトナムのDuongさんが研究員で滞在し、そして、来週はインドネシアのIrwanさんが地震学会に来る。
この分野では東南アジアの若手研究者もお互いの交流を深めながら確実に成長していることを痛感する昨今である。

Oct 9, 2009

ベトナム後遺症

ベトナムでは、フォーうどんの朝御飯以外、郷に入れば郷に従えと、昼はビール、夜はウォッカを楽しむ。その天罰が現れた。行く前より体重は二キロオーバー、30インチのジーンズが履けなくなった。一年前は29インチを楽しんでいたのに。そろそろ一念発起しないと大変な事態を迎える。そんなこともあり、リハビリを兼ねて酒に触れる機会がないスマトラに出かけることにした。

Oct 8, 2009

台風18号とマスメディア 1991年雲仙岳噴火の教訓

大型台風18号が列島縦断、被害は少なく災害日本も成熟しつつあるとの報道もある。しかし、テレビ報道でなぜ警報下で記者が外に出て中継が必要だろうか。 たしかに凄い風が吹いていることを知らせるに強風下での報告が臨場感がある。しかし、1991年雲仙岳噴火の火砕流でマスメディアの関係者で多くの犠牲となったことも忘れてはいけない。かの気象庁の職員も2000年有珠山噴火では決して立ち入り禁止域に入らなかった。危険な現場でのマスメディアの報道、真相レポートよりも他社との競争が根底にありそうだ。

Oct 7, 2009

スローライフもよい 台風下の新聞配達

朝、いつもより1時間遅れて駅まで出た。しかし、中央線は運転されておらず、再開のめども立たずだった。家に帰り、在宅勤務する。
一方、和歌山県では新聞配達中の職員が犠牲になってしまった。最近、JRでも運転再開は実に慎重である。8月の駿河湾地震でも、列車は30分ほど遅れながらも、隣の駅まで線路確認もあり、まさに歩く早さだった。台風下、新聞配達をいつものように行う必要があるだろうか。新聞社の適切な判断が必要である。

Oct 6, 2009

火山防災エキスパートもよいが

内閣府は平成21年9月より、各地の火山防災対策の立案等の支援のために火山防災対応の経験者を火山防災エキスパートに採用し、地方公共団体等に要請に応じて派遣します。確かに、火山噴火は頻度の低い災害だけに、初めての経験となる地方自治体も多く、親切な制度で、防災のために前進かもしれません。
しかし、その反面、地域防災の要になる測候所は来年4月でとうとう全廃されます。都議会も存続の意見書を提出した三宅島測候所は4月1日に、この10月に軽井沢測候所も廃止されました。ウェイブサイト上でも三宅島測候所は消えました。地方切り捨ての代償は火山防災エキスパート導入程度では解決しないものです。

Oct 5, 2009

秋田駒ケ岳に26番目の火山噴火警戒レベル

気象庁により、3年前から全国の活火山に導入されていた噴火警戒レベルが、この10月から秋田駒ケ岳にも導入さる。26番目の噴火警戒レベルである。この噴火警戒レベルは平常の1から、危険な5までに規定されている(詳しく)。
この噴火警戒レベルの最大のセールスポイントは、静穏をきちんと記していることだ。すなわち、気象庁がこの火山は現在安全ですと宣言している。この点を火山の地元は大いに活用すべきと考える。「○○火山は現在安全です」と真正面から取り上げればいいのだ。
もちろん、気象庁は地元の期待を裏切らないよう、しっかりと監視体制を築いてほしいものである。

Oct 4, 2009

王滝村が携帯サイトで御嶽山登山情報を提供

 今年の夏も、高齢者の登山遭難が多く伝えられた。たしかにウェイブサイトでの登山情報は、登山の最中にアクセスも困難で、実際に登山者に情報を提供することは難しい。その点、携帯サイトならば登山中にもチェックが可能となる。そんな意味から、王滝村は御嶽山の登山情報を携帯サイトで提供している。王滝村は赤字財政にも関わらず、07年噴火を契機に王滝山頂まで防災無線を開設した。

Oct 3, 2009

桜島南火口で噴煙高3000mの噴火

桜島が噴火した。昨年末から火山活動が活発化していた昭和火口でなく、1980年代に活発な噴火を繰り返した南岳である。10月3日夕方、噴煙は高度3000mほどまで上がる。爆発噴火の規模は、1980年代の南岳での噴火が活発な時期と同じレベル、昨年からの昭和火口での噴火と比べ大きい。問題はこの先の推移だ。溶岩流出まで発展するかどうか、まだ読めていない。(写真は鹿児島地方気象台による、撮影場所も、資料)

ベトナムが近い

名古屋からハノイまで5時間、ハノイからだとわずか4時間。夜行便だのに、わずか4時間で到着、しかも朝ごはんまで用意されるから、寝る時間はほんの2時間ほど。昼間に飛ばしてほしいものである。
その5時間で、新旧が混在したハノイに立つとなれば、戦後生まれはまさに幼き時代にタイムスリップすることになる。懐かしさも湧いてくる。

Oct 2, 2009

またしてもスマトラ沖で地震

30日夕方、スマトラの西海岸PadanでM7の地震が起きた。2004年12月の超巨大地震が発生してから、スマトラ沖のスンダ海溝では頻繁に大地震が 発生する。しかし、今回の地震はプレート境界でなく、沈み込むプレートの中が破壊した断層だ。8月の駿河湾で起きた地震と同様である。これまではプレート 境界での地震のみを考えていたが、地震の発生様式もなかなか複雑だ。なお、その後に起きた地震は、スマトラの内陸、まさにスマトラ断層で発生した。詳しくは 山中さんのサイト

フォーとブン

ベトナムではとうとう21日間、朝はフォーかブンのウドンで過ごした。ともに、米の麺である。平たい「きしめん」がフォー、丸細い「素麵」がブンである。私は、うどんの形が違うだけと思うが、運転手のグエンさんはいつもブンでフォンは決して食べなかった。その二つの麺に、牛肉か鶏肉が微妙な味付けで乗り、スダチを絞り、別皿のベトナムハーブをたっぷりと入れる。すこし酸っぱい野菜牛肉ウドンである。朝はフォーガー(鶏肉)、夜はフォーボー(牛肉)と区別しているようだ。吉野家顔負けの早さで出て、客も即座に食べ直ちに店を出る。ファーストフードのベトナム版である。でも意外に淡白で21日間食べれた。

最後の昼もハノイビア


Duongさんと運転手のGuenさんと三人で昼食。やはり、ビアが出てきた。今度は二リットルのアルミ瓶に入ったハノイビア。瓶は洗えば直ちに再利用できる、いとも簡単に空になった。ツマミはお浸しと揚げ春巻、最後は米の素麺ブン。昼寝はなかった。 日本で社会復帰できるだろうか?

Oct 1, 2009

ベトナムの外国人

ハノイでは旧市街地に泊ったことから、ホテルでも街頭でも多くの西欧人とすれ違った。彼らもハノイを楽しみ、一軒一軒の店に入っていた。しかし、不思議なことである。ベトナム料理の屋台でも、ローカルなカフェでも彼らに決して会わなかった。
気になり、ホテルでの彼らの朝ごはんの様子をしっかりと観察した。ホテルにうどんとおかゆ、そしてパンが用意されていた。九割の外国人はトーストにベーコン、子供はシールを食べ、麺など手も出していなかった。自国と同じ食事である。彼らの国際性の一部を理解した。